趣味

「第21回、武士の日記と、家計簿。その暮らしぶりを探るの巻」

 暫く、御無沙汰した皆様お元気でお過ごしと拝します。確定申告、貨幣の商売

決算期、そして上京と目まぐるしく動き廻ったのでブログの方を気になるが割愛し

た、最近やっと、落ち着いて本を読む時間も出来たが百年に一度の不況に胸が

痛みます。私も終戦前に疎開やら父の空襲による爆死の苦渋の時期と飢餓の

洗礼を受け筆舌に表わせぬ幼年期を堪えた身からすると、不死鳥のように蘇生

した日本の粘り腰、絶望してない。昨今、見た何十年前の映画「風と共に去りぬ」

の主人公のように明日を信じ励めば、必ず旧倍の叡智で挽回出来る筈だ。

 閑話休題。最近“元禄御畳奉行の日記”と“武士の家計簿”を興味を持って読

んだ。Gooブログに書いた勝麟太郎の赤貧洗うが如き生活(小普請組の旗本)か

ら見ると、元禄の尾張藩の朝日文左衛門重章は、元禄期でしかも御三家で安泰

であった、彼は<奉行>と名は聞こえ良い。知行百石余だが、響き良い絢爛たる

時代の生まれだ。家祖は甲州の農夫、信玄の足軽で戦死、その子は槍で活躍し

主の朝日永寿から朝日姓を受けるが武田滅亡後家康は遺臣達を重寵。徳川の

老臣平岩親吉に仕え、陪臣(またもの)ながら、慶長、大阪の陣で加増を受けた。

重章は九日毎に登城、気楽な勤務の身分、彼は18歳から26年間も日記を書く。

綱吉の生類憐れみの令に遭うが殺生し安逸な生活。当時、元禄小判の価値では

大工が月に一両二分(六百文)日給は二百文。最低生活者は日に二十五文あれ

ばどうやら暮らしていけた。商人が台頭はじめつつあり“銀五百貫(五十万匁)は

五十匁で一両だから、従って一万両となるその金持ちを”分限者と呼び羨んだ。

 現在価値8600万円程だ。“此の倍の一千貫以上を持つ者”を長者と呼んだ。

 重章は友人と「禁制の鰡を二匹買い煮て食べる一匹四十文なり」元禄6年12月。

 江戸では雁や鶏を食えば極刑である。尾張藩も鷹匠で馘首になるもの続出。

  さて吉宗の時代、「享保の改革」で改鋳された元文小判の価値は米価で現在

価で五万円(江戸初期10万円、中期は五万円幕末五~四千円、インフレで下落

する一両の価値)塗炭の苦しみが武家・庶民を襲った。

 もう一冊の本は“武家の家計簿”これは加賀藩御算用者の資料である。この主

の猪山家も菊池右衛門と言う加賀藩の千石取りの旗本に仕えた陪臣であった。

 菊池家では給人であるから知行を分け与えられたが精々三十石か五十石だ。

しかし筆と算盤に精通し、加賀藩に五代目が直参になる。江戸時代は武家社会

は算術を軽蔑していたから珍重されはじめた。18世紀は砲兵、工兵が弾道計算

や測量の数学的素養が求められてきて貴族社会の騎士道は平民に替られ始め

た、ナポレオンが砲兵出で革命を起こし近代化を開いたのが一例だ。

 猪山家で禄高百石でも借金するようだ。債権者は町人、藩役所、武士(親類)

武士(家中)知行所。親戚、同僚でも年18%の利子を取られたそう。元禄時代は

両替屋が銀行の役目をした、預金の利子は月六厘、銀約三十貫(五百両)あると

利子が年に三十六両で四人家族で食っていけた。【武士は喰わねど高楊枝】

 天保13年~明治12年迄書かれた、大抵の武士は丼勘定が殆ど、猪山本は

希少価値がある由。武士の俸禄は大別し、①知行(所領を与えられる)②蔵米で

(米を支給される)③扶持(米の支給だが日給制)。武士の悪口“このサンピン”

と言うのは尤も薄給の中小姓が約三両一人扶持だったからだろう。十三石二人

扶持の下級武士の家に生まれた福沢諭吉の【旧藩情】を読むと“麦、粟を買い、

粥や団子にしてその日を過ごす”とある。慶安軍役表に依れば武士は平時でも、

所定の兵員を常時抱えている、三百石の武士は、兵員7人が必要だった。

 この武士の例では三百石取りの収入は(4公6民なので)実収は百二十石だ、

一石=一両として金銭で百二十両。支出が主人・家来の食費が四十五両、家来

の給金が三十八両、諸雑費が四十両、主人一家の衣料代が三十両で赤字が、

なんと三十三両となる。羽織、袴。妻や家人もそれぞれ体裁を考える、奉公人は

法被、半纏でも良いが、登城時は正式に、槍持、中間は家紋入りの格好をする。

 二百石の武士の正式な出陣の場合は馬の口取り、主は馬に乗り、侍、小荷駄

甲冑持ちの図を見たことがある、尤も、金が無いので幕政の中頃は槍持ちと草履

取りの二、三人程で誤魔化したらしい、武士とは体面を重んじ大変だったらしい。

 江戸時代の武士の俸給は現在の職務内容から給料が払われる仕組みから言う

と隠居を申し出る迄“昔、先祖がコレコレの勲功を建てた”で支払われて家老、藩重役

になると、家柄で無能でも家督を継ぎ、お目見えが済めば生涯平穏、安泰だった。

 江戸時代は国民総生産の25~50%が武士の取り分であったそうだが、市農工

商の身分社会で余裕のあったのは冨商、冨農で、江戸や東北でも観光旅行に行く

と、新潟・福島で豪農の館が残り“♪殿さまには及びもつかぬが、せめて○○様に

なりたい”と小作人の恨み節が聞かれる。昨年旅した会津の旧家は2県に跨った豪

農であり東北の小藩の財政の面倒をみたそう。ピンからキリ迄あるが今夜は、武士

の哀しい生活の一端を垣間見た次第、では、又、おめにかかります。

 お休みなさい。 

 

 

   

 

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「第20回薩摩の武士の一典型、西郷の死生感に惚れるの巻」

  ここ、2ケ月、ブログに幕末と、維新の研究に殆どの時間を費やした。76歳

の私の生きざまは、何と、能天気なんだと、自戒した。夢の中迄、西郷や大久保

が出てくるのには参った。その参考文献は畏敬する司馬遼太郎氏の巨星西郷を

描いたもので皆さんご存じの本。「とぶが如く」(原書のとぶの漢字がパソコンに無い

ので“とぶ”とした、ワープロは単漢字多く入っていて助かるがパソコンは語彙が少なく

 不勉強で漢字の出し方がイマイチである)さて維新の最後の薩・長・土・肥の貴顕

の勢力争いの場に私のブログが進みつつあるが薩摩の藩の若者群像が格調高く

描かれている。なんでも最近の卓見では万人を導く作家では江戸は頼山陽、明治

は徳富蘇峰、昭和は司馬氏だそうで私も納得最初は難解で再々読して、やっと

理解出来る本多く「空海の風景」大難物。薩摩の国は高山彦九郎に言わせると

日本の国家の中にもう一国の独立国があると嘆かせた位、相互監視の厳しい国

だそうだ。江戸から入った幕府隠密悉く殺され“薩摩飛脚”の言葉で畏怖された。

 薩摩全志士が清廉潔白であることが清々しい。最近の政治家達に爪の垢でも

飲ませたい。此処で「郷中教育」が知られている。西郷、大久保、松方正義、森有

礼、寺島宗則、大山巌が知られる。大久保は家族が多く食事時になると西郷宅で

ちゃっかり御馳走になったそう。慶長年間、島津義弘が子弟相互教育制度として

この遣り方考案した、年少を稚児(14歳位)を年長者のニセ(24歳頃迄)が教師

役で厳しく指導した。オセンシと言う言葉が司馬氏のこの本で出る、御先師?先輩

に対する敬語か。薩摩のニセは午前は儒学、四書五経を教え午後は鍛練をする。

 西郷は少年期。喧嘩の仲裁中に、相手の郷中の子に右腕内側の神経を斬られ

数日高熱で魘され蘇生するが剣の修行断念、中村半次郎が終世西郷を護った。

関西で深更になると自宅出て、先輩、後輩が、番小屋に泊まり込みデベートしたり

鍛練や夜警をする風習があった。司馬氏の本に“義ヲ(嘘、言訳、理屈)イウナ”

“ヨワモノ苛めスナ”(弱者を苛めるな)。剣道で“チェスト!”の気合も薩摩で有名。

 刀は抜くべからざるもの無益な殺生禁ずるが危急の際、示現流の必殺剣振るう

 この薩藩の志士が天下騒乱で(郷士、城下士達が)暴れ維新の変革を担った。

 戊辰の乱で薩藩は勇猛で他藩圧し、陸軍・警察を掌中にしたが汚吏乱臣少なく

私は感服。征韓論で薩藩が割れ、あの西南の役で西郷が非業の最期を遂げたが

悲しくも郷中の仲間の縁が最後迄軋轢の種になった事が惜しい。明治帝は西郷の

乱臣賊子の汚名に心痛められ明治22年、憲法発布の大赦で赦し正三位を与え

られた、「ウドサー」「セゴドン」の愛称で西郷今日この地で人々の胸に生きている。

 秀吉、西郷は“人たらし”の典型で、拠る人々を磁力で吸収した。金銭に恬淡で、

旧幕藩の屋敷を参議クラスは廉価で政府から与えられたが、豪勢に建て直した例

が圧倒的に多い、爵位を授かり綺羅を飾り、自らを“御前様”と呼ばせ書生群に

履物を揃えさせたり、土下座させて、悦に入る輩が多かった、尤も、暗殺が多く、

旧幕の不満分子が狙う例が夥しく当時は、用心棒を兼ね身辺警護に屈強な郷里

の後輩を集めたものだ。木戸がある日、散髪に仏人の店に入った。帰途人混み

を縫う際に大小差し後ろから駆け足で来る丁髷の壮士や、馬上の庶民(維新前

は武士以外御法度)の威勢に狼狽したり、刀剣禁止令の火急な必要性を痛感

したそうで、気もそぞろ、帰宅して妻に「書生を御持ちなさいまし」と言われた由。

桂小五郎で名を馳せ抜騒乱の巷を平気で生き抜いた豪傑も次第に気弱になった

ようである。西郷は前述の豪邸を直さぬから雨漏りし、客が来ると、庭で傘さして

応対したり一張羅の着物を洗うと褌姿で乾く迄縁側でごろ寝したらしい。求職者

が郷里から訪問すると、桐野が玄関脇で追い払うがなかには、運良く逢える者も

いた。一例で。ぼろぼろの風体で来た男が留学志望を言う。薩人は寡黙を尊ぶ、

ぼそっと、「鉄砲の研究をしたい」と言う。外国から優れた銃器が来る時世だ、

しかし、戊辰の乱でその腕は薩藩一で名を馳せた「村田」は西郷も無視出来ず、

自分の扶持を削り研究する姿に感銘渡欧させた。彼の地で競技会があり、的

に当てる弾の数で何時も一位を独占した。後年、村田銃を作り恩に報いる。

 もう一人鉄道を研究したいと郷里から若者が来た、「大久保に言え」無視され

たのでセイゴドンにと言う。おまえは「海軍に行け」英国にやる。後の東郷である。

西郷は、他藩に人を押し付けても役立つ者を育てた(他藩は一匹狼のような、

自分だけ維新の果実を食う連中が多い)閉口したらしく西郷を見て逃げた。

 征韓論に破れると西郷は憮然として帰国する、後を追う後輩の数は夥しく、

軍・警察の後輩が追う。毀誉褒貶があるが、不世出の英雄だったと言える。

 今日はこの辺で、又お会いします。

 

 

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「第19回、渡来銭の宝庫“日原鐘乳洞”の謎について考察」

 暫く御無沙汰しました。季節も、読書、物思い、良い時季になりましたね。

平成16年12月の「オークション・ネット」で“日原鐘乳洞出土鐚銭類”の貨幣

の競りがあった。日野は東京都下。水量豊かな観光地で、昭和30~40年

洞窟に穴銭が発見された。中国銭・寛永銭と多岐にわたる。注目は日本鋳の

鐚銭だった。未流通で埋蔵されたので銘文の解析や鐚銭製作の小様鉄銭を

確認する格好な研究対象。しかし鍾乳洞の公園整備で新出土銭は無くなる。

 湿気や埋蔵品の選別中に外気も入り状態も劣化が進んだ。このセリは関心

も高く、私共も顧客さんに落札品を納入した。9月、此処を訪れた。JR青梅線

の終点から「東日原」行きバスに乗る。うつらうつらしてると半時間で着く。

 休日なので、洞に近い所迄は行かず、「東日原」で降ろされる。30分歩く。

 私の近くのは大滝根鍾乳洞。渡仏の際はW・ウエルズの小説に出る様な、

大規模鍾乳洞に入った。曲がりくねった階段ゆっくり降り、地底湖をボートで

走る。モーター付きで走るのだから、かなりの距離だったなぁ。

 日本で舟で走るのは見た事無い。蛇行したり、ミミズの様に這うのは体験。

「昔、貨幣出土した場所見られますか?」と入口で聞くと、フアンが来るらしく、

「採掘した場所、わかりますよ」とことなげに言う。摂氏10度ひんやりする。

低い天井に額がぶつからぬ様に腰かがめ棚状の凹部に目を凝らすが仄かな

蛍光灯下では老眼で鮮明に周囲が見えぬ、闇に眼が慣れると階段が見えた。

 水琴窟がある、蓋の図は“北周布泉”だ。老いの身はよく冥界の夢を見るが

 「三途の河」「死出の山」「賽の河原」「地獄谷」此処の名付けも不気味だなぁ

一廻り約1時間「江戸東京博物館」比すると心身涼しくタイム・スリップを堪能した。

 昭和40年、大量の古銭の総量は56万枚、約1屯。

1、無紋鉄銭 一番多く50万枚。2、加冶木等日本銭15000枚。3、北宋銭は

 2万枚。4、寛永通宝35000枚。何れも銅銭は溶解、破棄されたもの多い。

 オークション・ネットでも上~佳~並品が殆どで「広穿(こうせん)元祐通宝」や

 「天下手祥府11枚組」(小様鉄銭1枚含む)等が良いと思った。

  皆さんも「日原鋳造銭」(鉄分が多い)「日原出土銭」(他で鋳造されたもの)

 渡来銭、寛永通宝、加冶木銭等の日本銭である。皆さんも機会あれば是非

 蒐集してみてください。今日は、この辺で。

 

  

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「第18回、酷暑の旅をご披露」

 貨幣の話題について、前回迄お話してきた。今回は数年ぶり酷暑の数日を足に

豆をつくりながら歩き回ってきた次第をご披露したいと思う。貨幣の話題が出ぬ

とご不満かもしれぬが、ご覧乞う。

Ⅰ、亡父名が記載の墨田区横網町公園の「東京空襲犠牲者追悼祈念碑」参拝。

Ⅱ、皇居、東御苑、三の丸尚蔵館、“1900年パリ万博日本出展品展”を拝見。

Ⅲ、両国、江戸東京博物館。常設展示と“中国・故宮、書の名品展”と“発掘された

  日本列島・2008”東京展の見学。

 Ⅲの故宮の書の展示は、書に興味ある方々の熱気が蒸れていた。私は門外漢

だったが王義之の「蘭亭序」が日本初公開でその他歴代皇帝の書が心に残った。

又、遺跡展は“太郎水野2遺跡(山形県金山町)と“大清水上遺跡(岩手県奥州市)

が旧石器時代、縄文時代の代表として気を吐いているのを拝見出来て感激した。

江戸東京博物館は行かれた方も多いと思う。兜、鎧、刀剣類は真正品だが、貨幣

は某銀行の展示の写しだが、チャチなので落胆、金製品は模造も、良いものある

筈だ。銅貨類は本物にしてもらいたかった、貨幣店で容易に入手可能だ。次回は

この展示に関連ないが中国銅銭が大量発見された「日原鐘乳洞の話をしたい。

きょうはこの辺で、お休みなさい。

  

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「第17回“荘園”の盛衰を探る」

 荘園とは公的支配を受けぬ又公的支配を極力制限した一定規模以上の私的所

 有経営の土地だ「荘園」はManor(領地)西欧・中欧では領主の邸宅をも指した、

 仏ではマンション、英ではアパートメント・ハウスが派生語として使われる、意味深

 な言葉、日本ではわが町でもこの名が猫の額見たいな貸家にも使われる、仏の、

 ガルデクノン氏や従姉妹の手紙で正確に住宅名称が表現されるが流石だと思う。

 脇道にそれた、洋の東西を問わず「荘園」は生まれたが日本は奈良時代はじめ、

 朝廷の威光も眼光も威厳あり支配が徹底してたが人口の増加と財政需要の逼迫

 で期限付きの開墾制度を図り<三世一身法>を制定したが期限がくると没収される

 ので下火になる、時の政府は743年、「墾田永年私財法」を発布した。

  この法は墾田永年私有を認める為のものだったので個人資本主義的なものだ。

 短期間でも、耕す程自分の物になるのはこの時代ぐらいだろう、お上に報告する

 実測にくる訳でなく国司も多忙でかなり杜撰なものだったろう、大らかだった。貧農

 には資本を持つ貴族・大寺社、地方豪族が農耕具、生活費を貸与し開墾を奨励し

 はじめると大規模土地所有が畿内で広がる。

  中央政府から地方に遣わされた国司は下級貴族が多く開発領主として土着。

 所領の争いに武力使い家僕を増やし武力で闘争し鎌倉幕府の下地が生まれる

 1180年初期の鎌倉幕府は御家人から地頭を任命、朝廷はこの様子に危機感を

 抱き潰そうとした1221年、承久の乱が起こすが破れて東国から西に上る御家人

 が全国的に武力を持ち逆効果を招き、朝廷の威厳・実力は低下した。

  室町時代、民衆が戦乱の中で村落単位の団結を計る、「七人の侍」映画の例

 だが農民の結束等織田、徳川、上杉、武田のような強固な武家に敵う筈は無く、

 荘園は荒廃し夫々の武将が盛衰を繰り返すうち私的農地は荒れ離散する農民

 増え一気に「荘園」は没落し消える運命を迎えることになる。

  中世の末期、信長が興隆する、中世的商習慣を破り占領地に1567年“楽市”を

 設ける、繁華な土地に税からのがれた商人が群れ農民も火を求める蛾のように

 この地に安堵開墾に励む。秀吉は事業後継者となったがその直轄領は二百万石

 に過ぎず海外貿易(堺)の税収がものを言う、彼は荘園を消す暴君であり検地に

 より全国の土地を精査し農民も縛り完全に中小地主の息の根を止めたのである

  豪族の地方割拠は無意味になつたのは「米」を商品に日本国を一市場にした事

 で秀吉の頭脳と部下の石田三成の計数能力の手腕によるものが多い。では、又。

 

  

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「第16回「荘園」時代に突入す」

 昨日(5月12日、TBS放送、夜の水戸黄門。)で武田の甲州金の話題がでた。

 街道からちょつと逸れた疎林の斜面に抉れた穴がありそこを入り、坑道で2人

 で松明で探り少し傾斜面を降りると木製の櫃があり難なく、開くと丁銀様の物が、

 無造作に迸った。TVの番組で、武田の埋蔵金や、江戸末期の佐渡金山奉行の

 徳川再興の埋蔵金の掘り続ける人々の話題が出る。もう数千万円遣ったと言う

 話だ(地中から出た謎めいた仏像や)絵図らしきものが祖先から受け継いだと、

 勿体つけて、ぎらぎらした執念の視線を見ると、カリブ海のスペイン船の嵐の後

 の沈没船捜索に通じるものがある。向こうは金属探知機や海底の砂を払う最新

 装置もあり古い文書の手掛かりで成功率も高い、映画でも見た。日本は古文書

 もなく、赤城山麓や、武田の終焉地や雑木林の凹地、旧坑道を当てずっぽうに

 探るので、未だに発見の報を聞かぬ、莫大な資金を商売に使えばその執念で、

 成功すると思うが「夢」と言う一字に賭けるのだろう。昨夜のTVのような場所に、

 当時の施政者が、埋めるはずが無いが、愛嬌として見てれば罪は無い。

 

  日本は「和銅元年」708年、最初の銅貨、銀貨(古和銅)が出来てから、52年

 間、朝廷は色々な策略用い貨幣経済の流通を計つたが、一種では困る、半世紀

 後「天平宝字4年」760年。万年通宝を鋳造、合計12種“皇朝十二銭”を出すが

 水増して<改鋳利益>を狙う新銭発行は、インフレを招き庶民の貨幣への信頼

 を損ね、朝廷の威信も、「荘園制度」の勃興で大いに変動し低下の道を辿るが、、

 以下、次号叉すぐ、書きます。ひとまず、お別れします。                 

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第15回「和同開ほう」時代を探る

 貨幣を26年も扱って商売してると「先生と」よばれ、辟易する事がある。勿論、

 大学を出てから、教師の資格もあり、多少、貨幣関係の著作もあり、人並みに

 勉強もしたが、先に生まれたという意味で「先生」と云われるなら良いが、得て

 してベンチャラめいてコインを廉く購入しようとの下心の向きが多い尊称なので

 当方は警戒するので、私共に来られる方は、ご懸念なく呼び捨てされたい。

  「和同開ほう」ワープロの字は“ほう”が漢字で出るが、パソコン文字は「ほう」

 も「ちん」も出ない捜す方法は有るのだろうが、此処では、平仮名で勘弁願う。

 『和同開ほう』の「本物欲しいが在りますか」?。とボーナス時期に問い合わせ

 が来る、怒らないで堪える、何故なら、ごく、正しい表現だからである。

  昔々、どれ程の発行数があつたか知れぬが顧客さんだったら、時間を頂戴

 し鑑定書付きを納める。何枚か今迄商ってきたがこれほど厳しい品も無かろう

 採算が取れぬ、仕入れ値が高い!。まして、『皇朝十二銭』全揃いのオーダー

 だったら、ご免蒙る。708年から250年の期間に12種が発行された。組合の

 「日本貨幣カタログ」に <和同>だけで12種解説されている、(最近、細かく

 分別された)昔は2種位だったが、研究されてきた。価格も開きがある。

  偽物の世界でこの種が一番多い、権威のある貨幣商から組合鑑定書付きで

 お求め請う、最近、これより古い貨幣が発見された。「富本銭」である、

  左右に7個の星あり、平成11年1月19日、奈良、明日香村、「飛鳥池遺跡」

 から出土。成分の測定で最古の銅貨と認定され重文指定された。

  中国、唐時代の『麿文類しゅう』に‘富民之本、在於食貨’(民を富ませる本は

 食と貨にあり)から類推すると富本の持つ意義が推量できる「和同開ほう」製作

 が708年(和同元年)だから、富本銭が古い、見本となったのは唐代の優秀銭

 「開元通宝」武徳4年(621年)で当店でも中学生に推奨する→硬質銅貨だ。

  富本銭の左右の縦のに7個の星は七曜の星は【陰陽五行思想】によるらしい。

 こうした貨幣を眺めると、想像がはるか天空に駈け「趣味の王は貨幣である」!

 我田引水ではないが、富本も和同も目玉が飛び出るほど高いし富本銭は特に、

 国宝級だ。しかし、渡来銭でも特に江戸期に、優秀なるものを明銭「永楽通宝」

 (1408年)を敬い、年貢や物価を永楽銭に換算した表示「永代」「永高」。銭の

 異称にも「永」を用い元禄11年、日本橋箱崎町と深川佐賀町間に架設した橋

 は<永代橋>と呼ばれ愛された皆さんに「渡来銭」のコレクションお薦めしたい。

  今日はこの辺で、おいとまします。

  

 

 

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「第14回、札、丁髷、文明開化」

 タイトルが、唐突だが、まず紙幣の話から。外国人と文通すると不審に思われる

 日本の札が昔の肖像画が多いことだ(伊と仏は芸術家、英は女帝、史上の英雄

 そしてギリシャは哲人、学者、神話の女性達と誠に華麗だ)明治30年、政府は、

 閣議で日本武尊、武内宿弥、聖徳太子、藤原鎌足、和気清麿、菅原道真等を

 決めた。戦後、二宮尊徳が加わる。外人に「丁髷とは何なのか」?と聞かれた。

  応仁の乱後、武士が冑を被る時、頭ののぼせを防ぐ為に剃ったから“逆気”

 さかいきが転じて“月代”となった言う説がある。額髪を広く剃り上げ髻(もとどり)

 を前面に向けて曲げたものを丁髷という。青々と剃りあげた部分が月代で前頭

 部がまばらに延びるのは無精と忌み嫌われる時代だった。老いると髪も薄くなり

 老人は結い上げるのは大変だったろう。幕末に武士がかち合うと、頭で藩別が

 可能だった、薩摩はこめかみ辺りから広く剃り上げ、土佐は指二本の月代だ。

 薩・長・土・肥の開国派の中で長州が正統派だつた。司馬遼太郎「竜馬がゆく」

 の竜馬は、浪人なので総髪だ、ながい髪を後で紐で縛る。日本最初の写真師

 上野彦馬、彼は蘭国の化学者から、薬品の調合を学び、多くの写真を撮つた、

 これにより私共は維新の偉人の面影を偲べる。西郷は1枚も撮らない。暗殺を

 避ける為というより嫌いだったのだろう、島流しで流刑先で風土病に罹り、その

 為身動きが、肥満も手伝い悪く、華美な場所は嫌い、狩や釣りと戸外を好んだ。

 竜馬はかなり写真があり桂浜の銅像の基の写真が(懐手で肩聳やかす)が有名

 である。湿版写真は彦馬の働きで次第に長崎から江戸に広まった。

 脱線したが、紙幣に戻る。ジエノバ生まれのE・キョソーネは1875年(明治8年)

 来日、紙幣の鋼銅版手法、デザイン、原版造りに腕を振るう、神功皇后拾円札

 大黒百円札、その他。肖像画で、明治天皇。西郷隆盛を描き、高村光雲の至芸 

 が、上野公園の隆盛像に結実した。

  さて、丁髷も悲運に遭う、明治4年8月9日、太政官布。『散髪制服略服脱刀共

 可為勝手事、但、礼服ノ節ハ帯刀可到事』。願人坊主、牢屋敷の雑役夫以外は、

 髷が自慢の江戸っ子丁髷を切る事になったから、記念の写真撮る者、離婚騒ぎ、

 一揆迄も起こる、明治天皇は明治6年、断髪なされ、皇后様も御歯黒、眉墨を

 率先廃止の範をしめせれ、官員、警官、兵士が次々に洋服姿に変じた。

  政府は「髪税」「髷税」を徴収すると脅し明治22年、断髪が加速したと言う。

 ♪ざんぎり頭を叩いてみたら、文明開化の音がする♪ 来日する外人は、カメラ

 で、横浜、東京の風景を撮り盛んに海外に日本の姿をPRした。今回は明治維新

 の姿を当時のお雇い外国人の働きと人々の驚きを描いてみました。では叉。

 

  

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「第9回軍資金、昌幸の話続編」

   「真田昌幸の真骨頂を追う。」

 戦国時代、群雄割拠し、武将達は全国制覇の軍事行動は鉱山の

 争奪から始る、陸奥では砂金が錦裂に包まれ源家再興に寄与し

 た。「石見の大森銀山」の覇権は大内・尼子・毛利氏が熾烈な争い、

 「静岡の富士・安倍金山」 武田対今川、信玄・謙信の永年の確執

 も同じ構図である。信玄は黒川谷をはじめ金山衆を擁し甲州随一

 物持ちと言われた、群雄が軍事に使うのは農民慰撫に銅銭でも

 良いが使い勝手としては鞍に皮袋に入れ運ぶには金、銀が最適、

 円形小型の甲州金が誉高く種類もかなり豊富で小粒も存在する。

  太閤円歩金もあるが、通用銭と言える程の量では無いようだ。

  映画「隠し砦の三悪人」は銀を流し込んだ粗朶を背負って関所を

 抜ける場面があるが「竹流し金」に似る、考証の苦心が窺える。

 古来寡を以って、善く豪を制す譬え①元弘二年(1332)楠正成の

 千早城②永禄三年(1560)桶狭間の信長③真田昌幸を挙げたい。

  特に真田は領民と、子孫の為に巧みに自身を昇華させている。

 昌幸は天文16年、幸隆の三男に生まれた、父に没後、長男の

 信綱が家督を得たが武田の家臣団の先手として「長篠の合戦」で

 信綱、、昌輝が討ち死した為、後を継いだ。沼田城を攻め落として

 信玄に報いるが武田家滅亡後、沼田の地で城の整備をし領民に

 善政を敷き慕われる。読書好きの私「真田太平記」(1)~(3)

 を読んだが感銘受けた。武田家亡き後、天正13年、家康は突如

 八千の兵で襲うが弐千の城兵で撃破する、歴史に翻弄され、秀吉

 に会い臣下の礼を採り家康とも和睦、だが北条氏に沼田城を渡す

 べしと秀吉の命、已む無く名胡桃城に移るがそこも北条の魔の手

 が延びる、北条氏の秀吉の坑命が続き、結局征伐され滅び沼田城

 に帰れた。だが豊家は没落し、真田家の長男信之は家康の養女の

 小松姫を娶る。昌幸は隠遁し、豊家の行く末を案じる。

  徳川が昌幸に会津上杉征伐を命じ征路突如、石田三成が密書を

 寄越し、兵を挙げるので同盟に加わって欲しいと呼びかけてきた。

 次男、信繁が関ヶ原に向う。昌幸は関ヶ原に急ぐ秀忠軍3万数千人

 を手勢2000余の軍勢で阻止、秀忠は合戦に間に合わず、世間の

 笑いものになる、家康の怒り(長男信之の貢献には満足したが)

 親子の抵抗に怒り死罪申し渡す、恭順を続ける昌幸と必死の信之

 の懇願に、九度山に流す、蟄居した昌幸は真田紐の内職を僅かな

 家臣に勧める。司馬遼太郎氏「関ヶ原」「城塞」「豊臣家の人々」

 「新史太閤記」にこの時代が活写される、滅びの歴史は哀しい。

  次男信繁(後年の真田幸村)は関ヶ原で滅びた大谷吉継の娘を

 妻にしていたが、九度山を抜け大阪城に入り活躍する、淀君派の

 無定見に絶望したが夏の陣では家康軍を翻弄し壮絶な死を遂げる

 昌幸は慶長16年(1611年)配所で65歳の反骨の生涯を遂げる、

  世間を憚り、後年、国許に遺髪が戻り父母の墓所長谷寺に墓が

 建立され今日も香華が絶えぬ、代々遺訓を守り善政を敷いた家系

 は長男信之の子孫が守ったと言う。さて戦国軍閥の軍資金・銀は

 、徳川が目を光らせ、太閤の遺産は鋳潰され、人の手程の大判金

 指の長さの小判金、持ち運びに利した丁銀、豆板銀、一分、二分金

 銀、天保通宝、宝永通宝等が誕生し絢爛たる貨幣文化が開花した。

  今日はこの辺で、さようなら。

 

 

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「第8回真田氏と六文銭に想う」

 こんにちは、競り市についてご援助ご後援感謝。貨幣に関し

 て無関心だと思いましたが(90件近く足跡頂戴)伝言中に

 「六文銭」の話題が有り、一文銭につき一寸書いて見ます。

この真田氏の旗印に染め抜いた貨幣は多分渡来銭でしょう。

長野県「上田」が真田氏の故郷なのです。駅前に「六文銭」の

旗印と鹿の角の冑頂く幸村銅像が付近を睥睨してます。

 この地の人々は反骨の真田三代の領主を誇りにしてます。

講談では悲劇の“大阪夏の陣のつわもの”【真田十勇史士】の

血湧き、肉踊る話が載ります、それほど真田家は魅力あり。

昌幸、信綱、信繁(後に幸村名で著名になる)三代武家の話程、

胸打つ挿話は無い!そうそう“真田十勇士”とは、私の記憶では

①猿飛佐助②霧隠才蔵③海野六郎④穴山小助⑤由利鎌之助

⑥根津甚八⑦望月六郎⑧筧十蔵⑨三好青海入道⑩三好伊三

入道。きょうは時間がないので昌幸の事は次回に掘り下げて、

見たい、私の棲家は「植田」、この話題の人は「上田」奇縁と言う

べきですね。おやすみなさい、又。  

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「第7回競り市の話、質疑応答を」

  問、「西洋、中国、日本貨幣の話面白かった、が5回目に店内の品

     の話題が出た、この意味を知りたい」

  答、「百聞、一見に如かず」の譬えあり、私注文品受けで此処まで

     四半世紀営業してきたが、其れだけに(コピーに過去の品物

     記録が残るのみ)次代に美田を残す為外国を含め競り市で、

     入札、落札、コツコツ蔵品持ちました、が古老が「気に入った

     物、溜め始めたら駄目苦労して外国から輸入して巷間に公開

     してこそ、仕事師としての意義ある」との諭しもあり、身辺には

     置かぬ決意以後外国では渡英時「ボールドウイン」「スピンク&サン」

     又香港「ギリオ」又パソコンで「World Coins」カタログ掲載の諸国

     の業者の動きを見て対応してきました。日本も10年前に、

     画期的なGコインさん最近はOネットさん、貨幣商組合傘下の

     店で各オークション数店で開始す、但し外国貨は日本貨より

     語学の障壁があり仔細に見るのは経験が要るようです」

  問、「Gooブログで昨年来書いてきたのは外国体験、貨幣紹介だ

     なぜ、ココログで今回唐突に始めたのですか?」

  答、「良い質問、地方での私の仕事年齢の事もあり間口を広げる

     ことに躊躇した、ココログの約款でこの程度のブログ許可で

     1回行う事にしました、他意は無い、このブログのあしあとの

    方が「日本貨幣カタログ」のフアンで無いかも知れず、Gコイン

    さんの競り市では、全国を網羅し数千万円の珍品が落札あり!

    しかし当ブログは同じ趣味の方々がささやかな交流をされており

    随分苦慮したが、店のスタッフが今朝品物携帯℡で画像を創り

    私の絵も撮り、真面目な競り市の風景を載せてくれた、画像は、

    画素の関係で薄いが、蒐集家は判断出来ます。賽は投げられた

    16日迄、始めてのオークションを愉しみにしてますょ、敬具。

 

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「第6回は銘品競り市お知らせ」

Ts380020 Ts380021 Ts380022 Ts380023 Ts380024 Ts380025 Ts380026  久し振りです。パソコンの修理が終わり戻りました。NECだけ

 の事あり 小気味良い程の対応でした。さて貨幣の歴史を西洋

 の発祥から紐解いてきました。中国、日本の貨幣史を辿り当店の

 在庫品の中から具体的に紹介しましたが 但し 対面商いを永年

 してきた身に取り決算期ですので(ケースの品をこの紙面に出す

 気になったのです)気後れして。私宛 かなりの“足跡”の中でも

 貨幣に就いて関心があり オークション体験者もあるかと思い

 ますので ブログに今回の企画載せてみました。★豆板銀★

 慶長の幣制で 銀の切り遣いを禁止した代りに安政期迄 小型の

 貨幣が鋳造された。麻の実から苺大(若干訂正、碁石様平面で)

 露銀と呼ばれる1g前後の物もあり 丁銀の様に大黒、寶、常是

 、年代印を打つ事が出来ぬ 時代印、大黒、群文等で鑑定する。

 「日本貨幣カタログ」等で学ばれたい。

 ★竜一円銀★

 【表面】一円額面 【裏面】龍図、年号。

 慶応4年、香港の英造幣支局が閉鎖され 機械一式と7人のプロが

 来日 近代貨幣が生まれる端緒となる。加納夏雄は英国の貨幣の

 元首像でなく 中国の君主は竜顔を擬すの意匠を提案 彫金の業

 は英人を驚倒させ それに決まった。江戸以来の彫りの伝統だ。

  ①「貿易銀」M8~10 高額。②「旧一円銀」M3も高価。

  ③「新一円銀」(大型)M7~M12 高額 M13~M20前期

  年号により高価だが中級のコレクター向きも有ります。

  ④「新一円銀」(小型)M20後期~T3 値段 初心向き手頃だ。

  ★旭日竜大型50銭銀 小型もある。20・10・5銭があり

  M3又M4年に出た細かい技術が光る。ただ 5銭タイプになると

  刻印が磨耗し(それ程繊細)後に「五銭」字と旭日のものを鋳造。

  …………………………………………………………………

  ☆「天保小判」極美(柏・東)流通摺れ極少両替印無、18万円  

    ☆「天保丁銀」極美、140g、古色善し、        6万円。

    ☆「アメリカ」1$、“モルガン”1921、頬に1.5ミリ擦れあり   

  準未使用、フィラデルフィア鋳。磨きあるが美麗。   3500円。

  ☆「竜一円銀」明治15年、極美~準未。     16000円。

  ☆「竜一円銀」M25後。M28、30、34年、各美品。 4000円。

  「竜一円銀」M36美品と、T3極美品。 各3000円。

  ☆「旭日竜小型50銭銀」M4、小竜 極美品。   12000円。

  ☆「琉球通宝」(中字)美品、文久3年。       8000円。

以上12点です。(2008.1.23)新聞掲載のU社の広告を参考にして要綱を作りました。   購入ご希望の方は、 はがきに「郵便番号、住所、氏名、年齢、TEL、職業、入札品名、入札額」を書いて 平成20年2月16日迄 〒974いわき市植田郵便局 私書箱20号「ミントマーク」迄お寄せください。最高値落札の方へお知らせします。ご質問等ございましたら 0246-62-5565(FAX番号も同じ)迄 お問い合わせください。営業で他出ありますが対応させていただきます。1回だけブログに載せた縁で品物紹介しました。                   

                          

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「第5回、銘品紹介、続きです」

〇「天保小判」極美品「柏」「東」両替印なし刻印鮮明、磨耗少。

 貨幣、ご説明。昨年3月、デルのパソコン、現今NECの新型と、

 2台目、Goo、ココログ、何万文字書いた、主にライフ・ワーク

 の貨幣の啓蒙と海外渡航記で3桁の方に見て頂き望外の喜びで

 あります、が、デレートキー酷使しすぎ、明日、メーカーに出す。

 貨幣の即売、壱品物、勿論真正品、店内展示中最近競りで入荷品

 、今、パソ宥めつつ御供覧した次第です。

 「貨幣カタログ読めば判るよ」の向きもあるが私も勉強をもう一度

 ケース越しに小判みると心が癒される、売らねば良いべぇ!と言う

 辛い事です、昔、入荷すると、ニヤニヤして秘蔵した。蒐集家なら

 済むが、プロでは駄目、「良いかい、苦心して願望の名品を入手し

 たのを貯め後で出したら心残りだけ注文品では特に、そうだぞ、

 自分の見識傾け自信ある物は説得力違う自分で仕舞うな出せ」と、

 こうして珍・希品25年、みちのくの小粒店、愚直に生きてきた。

 閑話休題、ブログ見て関心あればホヤホヤの競り品壱品ずつです

 お売りします、勿論、真正品。ビギナーの方に解説いれましょう。

 「小判」前稿、大閤大判、書いたがその後慶長、明暦、元禄、享保

 天保、万延大判出た、高額なのでパス、定位金貨とし天保五両判が

 出たが短命「壱両小判」十種、小型「万延小判」(雛小判)続く。

  ルーペで山吹色のくすんだこの小判見ると疲れ吹っ飛ぶのです、

  昨年、珍しく十枚以上の小判、金価格の高騰、バブル再来で過去

 の資産価値の低いもので失敗、目が肥えたか、江戸金銀の売買す。

 新聞でも広告の増加で判る当店でもレクチャーが熱入ったのです。

 「天保小判」を見ましょう、【表面】扇形桐極印、「壱両」下に、

 「光次」刻印(幕府が、後藤宗家に鋳造を請け負わせた、花押)で

 最下部に扇形桐極印。【裏面】右上に〇中に時代を示す“保”字

 刻印、中央に「光次花押」(家康が相伝で認めた後藤宗家の花押)

 左下部小検印、上が座人印(金座の事務方)下が棟梁印(手職人

 が完成後、彼が克明に調べ認印押す)これで市中に出る訳です。

 → 弐字組み合わせが「大吉」「守神」等は縁起良いと珍重された

 この時代物は未使用は無く畳目、刻印の磨耗やスレ少くない物が

 極美品、両替商の検印が(裏面多い)少ないのが評価高い、但し

 正徳迄の残量が少ないものは検印多くても高価、元文小判は量が

 多い(流通期80年余)当然痘痕のように両替商の厄介になる。

 

〇「天保丁銀」140g、極美品、(包み出しの色)、磨耗少。

  細長い、なまこのような銀塊です、昔、庶民は大井川濡れて、又

 雨に遭い粗衣に合羽、巾着に銭入れて道中、ふらふらで旅しました

 その中で銀貨が長旅で生きます、銀を切り遣いする術もある。幕府

 (チョコを切っている姿想像あれ)こうした夥しい小片に困惑して

 慶長の弊制で禁止、秤量貨幣として丁銀、豆板銀(目方も不揃い)

 が大量に出た、円形で擦れ合っても良く麻の実、苺大の物迄ある。

  豆板銀解説は後日。丁銀は12面大黒が高価です、当店の丁銀

 は両端に「保」字が打たれ。左右に「寶」「常是」「大黒」模様が

 計六個、縁際なので半分以下の模様だが打たれている。両端の保字

 極美品は保字の中の筋がくっきり見える、錆、両替印無し、品格

 も良い、当時大手の両替商は和紙に包み(一例25両)屋号、量目

 額面、封印、割印、中身見ず両替商の信用だけで商売したとか。

  包み出しの色は綺麗である、「太政官貨幣局」の官封物は明治後

 高額である、今日も「日銀」の官封物は良いといわれる。

  

〇「琉球通寶」(中字) 文久3年、美品、古色よし。

 薩摩藩は琉球救済の名目で、幕府に天保通寶型の銅貨の鋳造を請願

 薩・長・土・肥の台頭に悩み、圧力に屈し許可。薩摩は大字、中字

 小字の3種製造した維新の軍資金になる、この当店の物は古色良く 

 稚拙な鋳型だが、幕府ものに無い味わいがある。

〇「アメリカ、【モルガン】1ドル銀貨。1921年、準未使用。 

 拙著「世界クラウン貨銘鑑」“これだ200種”203P掲載あり

 過去に於いてUSの貨幣の図案がラテンアメリカの手本、英国が

 欧州気品貨の象徴。ミントマーク無しはフィラデルフィァで製造、

 表面、自由の女神、裏面、羽根を広げた白頭鷲。

 銘文は「IN GOD WE TRUST」神に信任する。デザインは

J・モルガン、此の為、“モルガン”と呼ぶ。

 ビギナー向きの物、ミントにより高額あり。顔に製造時の髪の毛の

 摺れあり、磨きあるが、良いUS貨の入門貨でしょう。

 1、いわき市JR植田駅前の店老年になり、移り自宅で営業中、

   電話帳にささやかながら載る、組合は離れたが今日でも

   福島の泉界の向上に微力尽してる、冷かしで無ければ、

   今回の品、HPで(インターネットで販売してる店多いが)。

   2、ささやかな品々、興味あれば、近い方は御覧請う。

   方法は、パソコン直り次第、詳しく。今日の解説で「小判」の

   良さが判れば「丁銀」の話共に、望外の喜びです、敬具。

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「第4回、机上の名品紹介です」

  第3回稿、“行”がうまく入ったと思ったら、壱字はみ出した。

 口惜しいので、今日再挑戦したい、ツタンカーメン当時から金は

 権力のシンボル、アテネ考古学博物館「笑う黄金マスク」を見て

 衝撃を受けた、日本の能面のよう儀式で使用したと思われるが、

 インカの発掘面に通じる謎のスマイルだ。地方でビギナー啓蒙、

 顧客さんの注文受けで、四半世紀大過無く遣って来た。公務員の

 経験から地味だが「古武士の商法」で来た、あまり儲からぬが?。

 公序良俗に反し、途中で消えた同業居る【一例】紙幣の裏に瑕が

 あったとしょう、黒台紙に格納すれば見えぬ、上京した初期に古参

 の神田のベテランから、入れた物、気が付いた、即、返品図るが、

 言を左右する。彼の筆跡だし最後は返品したが、対面販売の際は

 その場で開き「取引が成立」のルール叩き込まれた。生き馬の眼

 を抜く修羅場でボサットしてたらいかんと、その後の競りで学んだ。

  もし私の店でそうした物を収め、何年か過ぎて判明の際は顧客

  さんはクレーム我慢するが、リピーターとして絶対来ない筈だ。

 昨年“偽”で揺れた、過去の例で倒れた例を知りながら再演する。

  ジョンソン&ジョンソンが廉価の品の瑕で回収で大損した、が、

 世間は潔い対応に喝采し今堂々のメーカーだ、松下もストーブで、

 損を承知で、敬服してる、昔火事で焼け再建し味落ち辞めた方居た。

  3大新聞に「大判・小判」「財務省放出金貨」の広告が再々載る。

 過去に小判の記事は正月の催事で出る位だ。金貨が威勢良いのか

 再バブルで貨幣の持つ普遍性が泡沫のような資産形成の愚を悟った

 例か、同慶にたえない。私は注文専一でデッドストックを置かぬ地方の

 小店、だから東京の壱千万人都市と違う遣り方で顧客さん接します。

  子供さんの成長話から占いじみた話題、親戚付き合いで来る。

 コレクターは独身の方が小回りが利き、催事でも出かけ易いようだ。

〇「天保小判」極美品、「柏」「東」、両替印なし、刻印彫り、磨耗少。

〇「天保丁銀」140g、極美品、(包み出しの色)古色良し。

〇「USモルガン1$」鋳造時のカスリ傷顔面、準未、1921年、磨きあり。

〇「琉球通寶」(中字)文久3年、美品、古色あり。

 前回は西洋貨の発達、中国貨、昔の庶民の貨幣の扱いを書いた。

 今回はオークションで入手した4点を机上で微細に説明。(このブログ

 は、商いの話題も当方の氏、素性を公表すれば許されると聞き、PR

をしたい)時間が無いので、近日「貨幣カタログ」面を掘り下げて説明

したいので、お暇の方はお聞きくだされば幸甚。なお、上記の貨幣は

最近、オークションで入手したものです。では、又。

   

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貨幣代用物、未来続々と誕生?

  第2回目、文字の桁の読み違いで見苦しい文をご覧に入れた。年

ばかり重ねて(Goonoブログの体裁に慣れ)ココログの左右の記事の

巾読むと、本文が30字位で無いと、字が次行に飛び見苦しいのです。

 今回は綺麗に書きたい。前項でトルコで西洋貨が生まれたと書いた、

 古代中国貨幣史は興趣に富む、突き詰める程奥が深い。

 公務員から貨幣研究の道に入り、いわきで営業して26年、光陰矢の

如しである。未だ道遠しだ、貨幣商組合の「日本貨幣カタログ」は聖書

のようなもので、無いと不安であり、これがあれば売買は、ガラス張りで

その点、明確である。

 南洋で円形の大きい石の中央の穴に棒を通し結納?に運ぶ半裸の

男達の姿がTVに映る、制作にどれ程の期間がかかるか知らぬが悠久

の時間が費やされて、詩情が窺える。今時、流通せぬだろうが貝殻の

首飾りも価値が高いらしい。「中国貨幣」のページをカタログで見よう。

 狩猟時代は貝、野獣の皮革が用いられ、農耕が定着すると、岩塩

、糸、穀類、布、家畜が市場で交換された。徳川時代“石高”と呼ぶ

諸藩の財政は米が中心で大阪の蔵屋敷群が各藩の出先機関だ。

 東北は冷害だと大変だ、特産物の木蝋、紅花、織物に精出した。

 さて、中国は子安貝(女性の具象)が貨幣。よく「原始、女性は太陽」

と言うが、生命の源泉として、昔から崇められた。「貝」字の変遷では、

分けられ過ぎると「貧」、人に侑(すすめる)と「賄」になる、又貝を贈物

にする意味「加」を加えると「賀」になる。貝は→貨に通じる。

 海に遠い地方では子安貝が無い為、亀、動物牙、骨、金属で 製造

した貝貨がある。「蟻鼻銭」と言う可愛い「蟻の顔」貨もあり微笑ましい

 剣、魚、を擬し刀幣、魚幣。本来「銭」とは、鍬(すき)を指し農具を摸

した型の「布幣」が種類で一番多い。

 始皇帝、西暦前221年、中国を統一したが「度量衡」を研鑽、真円形で

交易にも利便な銅貨に四角の孔、価格を表示した「半両銭」を考案した。

以後唐時代に飛ぶが、高祖、武徳四年(621年)「開元通寶」は衝撃が

日本に伝わり元明天皇の和銅元年、「和銅通宝」となって日本史の黎明

期を迎えた。「匁」は「開元通宝」一枚の重量「一文目」から由来、一例で

足袋の大きさ、00文とは、直径24mmの通宝を並べた長さから来た物

で度量衡の好例である。

 庶民に回るほど「皇朝十二銭」無く脆く金属精錬の術も劣悪民衆は物々

交換したり、民間貿易の渡来銭を珍重した。

 徳川幕府は鎖国すると、国の威信を賭け全国通用の金銀銅貨を造幣。

藩札の最初は、越後福井藩、家康の次男、結城秀康の領地であるが、

その子忠直の乱行で改易、親藩なので、減封され,寛文元年、財政難で

幕府に請願「藩札」を造った。以後各藩が名乗りあげた。隠れて密かに、

私札(塩、炭、酒、砂糖)等特産品の商品券で乱発。

 銀使いの多い中国筋は「藩札」がオカネであり、伊勢参りで、幕府の金

銀、銅(天保通宝、宝永通宝、寛永通宝等)の正貨を見て驚いたと言う。

 戦時中、常磐炭鉱の炭鉱住宅(映画“フラガール”の舞台)で伯父が遊び

に行くと坑内で使う金券で私に店で菓子買えと云われ吃驚した。味噌、米等

米軍の酒保と同じの「トークン」と同じ。最近、豪州の貨幣をブログに書いた

が特別地域「キーリング諸島」で象牙色の樹脂代用貨がある。又貿易決済

「貿易銀」があるがその国の威信がかかるのだ(米、英、日、仏中国有り。)

 外国では電話機の被害を防ぐのに電話貨がある。溝が切られ伊製では、

「テレホニカ」と読めた。小名浜国際港の近くの知人が自販機で、外国貨の

被害があると聞き訪ねた。日本の500円程の低額貨がゴッソリ入ると言う。

各国語で、注意書きがあるが、かえって、逆効果の気がした。

 その後平成12年まで「旧500円使えません」の張り紙見たでしょう?。

 これから、€貨、円、$貨、ルーブル貨が続々機軸通貨の名乗りあげる。

 世界はカードや電子マネー、目まぐるしく変化するだろう。では、この辺で。

 

 

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人類皆兄弟?“ユーロ”の魅力!

【 陸奥より寒中御見舞い申しあげます】東京は雪の便り“いわき七浜”は、温暖にして

“東北の湘南”と称し、東北6県あるが、当地は温泉、水族館、山紫水明、沃野に富む。

転々任地重ねた人々も、定年になるとこの近辺「終の棲家」購入する人圧倒的に多い。

私、欧州各地を放浪した時ギリシャ・ポルトガルで、老いてから何処が住み良いか熟慮、

Gooの私のブログでどうぞ。昔組合で仏国際展参加、貨幣が専門なので切手に飽きて。英、伊、スイス、ギリシャ貨幣事情を調べた、手振り、身振りで凌いだから呆れる。

当時、交換率に知恵絞り(銀行の窓口トラブルが夢に迄出て困った)今や円が基軸通貨「円」が強い!皆さんバリバリ買い物に精出しているのはご存知の通りである。今回は、

「ユーロ」の話がテーマ。日本の総面積の8・6倍、総人口3倍のユーロ圏は1999年に、

通貨同盟として発足、EUの15国のうち英が様子眺めデンマーク、スエーデン国民投票で否決

だが他の国は嬉々と参加。通貨交換不必要、貿易増加、競争効率高まる。ギリシャなど

電化製品、自動車が増え、葡萄牙はインフラ面で観光開発面で垢抜けたのが判然とする

反面景気が冷えると対策が後手に回るが、プラス面が多い。さて、「ユーロ」発行の、紙幣

7種類、意匠は表面共通(500.200.100.50.20.10.5€)、コインは表面は共通(2.1€。50.20.10

5.2.1セント)裏面はその国の遺産、風習等独自のデザインが許可されたのが救いである。

貨幣は紀元前650年、トルコの地、リディア王国で金銀合金のエレクトラム貨が嚆矢で

ギリシャ、ローマ金銀貨私共は競り市で現在見られる。日本は708年の和銅元年初鋳。

日本の詳しい話は、別の機会に譲る。現今、何気なく貨幣を使うが昔、徳川時代迄混沌、

我等の先祖は金が無くても永い間不自由無く物々交換で暮らす、信長は楽市に精力を注

いだ。天下統一した秀吉も貨幣に興味を抱いたが大量の流通貨は製造してない。「太閤

大判あるだろうが」と謂われるが家臣の恩賞用や朝廷・公家などの贈答用で天正年間に

室町将軍家の御用彫金師、後藤家に造らせたもの(戦功で最初は土地、馬や武具それ

も尽き家臣も増えてやがて大判になる)。徳川期、太閤の遺産を潰し小判を含めて統一

国家の大事業として銀、銅貨の生産始めたが(民間に平安、鎌倉、室町時代に幕府や

民間貿易の中国の銅銭が散在し)同一価値と看做し凌いだ、「寛永通宝」より質、デザ

インも優れたものあり宋・明銭が持て囃されたらしい。「永代橋」の永字は「永楽通宝」の

永があまりにに素晴らしいので良いものの形容詞と囁かれた?説あり。ユーロから脱線

したので今日はこの辺で、最後に私の遊び心を。よく買い物に行き巻尺忘れた時は1円

貨で(ビニール紐を)スーパーの台に大きい物包むのに引き出せるようにある紐だが、

これを巻尺代用にする、1円アルミ貨は直径20mm、1gある、何枚かあれば、20~30

Cmの紐ができる、500円銅貨は26.5mmだから、大体の目安になるが、山椒は小粒

で、1円に軍配あがる。では貨幣の面白味、又の機会、改めてご披露を、さようなら。

 

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外国貨幣の魅力は無限です!。

今日は、昨年、3月に、Gooのブログで、皆さんの前に現れた、外国貨幣の研究者です。兎に角、ブログのノウハウに就いて、何も知らず、汗顔の至りですが、パソコンの持つ無限の面白さが、背中を押してくれました。早いもので、1年を迎えます。Goo投稿だけで無く、別の舞台でも、外国貨幣の面白さを皆さんに、ご披露したいと、ココログに場を持ちました。宜しくお願いします、さて、過去の私の研究の一端について、知りたい方は「“これだ200種”の作者です。」タイトルではじまる、Gooの投稿を、御覧ください。では、この場に早速、原稿を作り、近日中にご披露したいと思います、私の著書は絶版の為、御覧に入れられませんが、「日本の貨幣関係の文献」一覧に“ジェミニ”発行書籍として載ってます。もっと興味のある方、他の貨幣のデータは「ヤフー」で検索して,私の氏名で御覧下さい。貨幣の拡大図その他、50~60件、各国貨幣の見どころの解説があります、ながくなりましたが、初回の投稿、ご挨拶とします、 皆さんの今後のご健闘を祈念します。  

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