「第9回軍資金、昌幸の話続編」
「真田昌幸の真骨頂を追う。」
戦国時代、群雄割拠し、武将達は全国制覇の軍事行動は鉱山の
争奪から始る、陸奥では砂金が錦裂に包まれ源家再興に寄与し
た。「石見の大森銀山」の覇権は大内・尼子・毛利氏が熾烈な争い、
「静岡の富士・安倍金山」 武田対今川、信玄・謙信の永年の確執
も同じ構図である。信玄は黒川谷をはじめ金山衆を擁し甲州随一
物持ちと言われた、群雄が軍事に使うのは農民慰撫に銅銭でも
良いが使い勝手としては鞍に皮袋に入れ運ぶには金、銀が最適、
円形小型の甲州金が誉高く種類もかなり豊富で小粒も存在する。
太閤円歩金もあるが、通用銭と言える程の量では無いようだ。
映画「隠し砦の三悪人」は銀を流し込んだ粗朶を背負って関所を
抜ける場面があるが「竹流し金」に似る、考証の苦心が窺える。
古来寡を以って、善く豪を制す譬え①元弘二年(1332)楠正成の
千早城②永禄三年(1560)桶狭間の信長③真田昌幸を挙げたい。
特に真田は領民と、子孫の為に巧みに自身を昇華させている。
昌幸は天文16年、幸隆の三男に生まれた、父に没後、長男の
信綱が家督を得たが武田の家臣団の先手として「長篠の合戦」で
信綱、、昌輝が討ち死した為、後を継いだ。沼田城を攻め落として
信玄に報いるが武田家滅亡後、沼田の地で城の整備をし領民に
善政を敷き慕われる。読書好きの私「真田太平記」(1)~(3)
を読んだが感銘受けた。武田家亡き後、天正13年、家康は突如
八千の兵で襲うが弐千の城兵で撃破する、歴史に翻弄され、秀吉
に会い臣下の礼を採り家康とも和睦、だが北条氏に沼田城を渡す
べしと秀吉の命、已む無く名胡桃城に移るがそこも北条の魔の手
が延びる、北条氏の秀吉の坑命が続き、結局征伐され滅び沼田城
に帰れた。だが豊家は没落し、真田家の長男信之は家康の養女の
小松姫を娶る。昌幸は隠遁し、豊家の行く末を案じる。
徳川が昌幸に会津上杉征伐を命じ征路突如、石田三成が密書を
寄越し、兵を挙げるので同盟に加わって欲しいと呼びかけてきた。
次男、信繁が関ヶ原に向う。昌幸は関ヶ原に急ぐ秀忠軍3万数千人
を手勢2000余の軍勢で阻止、秀忠は合戦に間に合わず、世間の
笑いものになる、家康の怒り(長男信之の貢献には満足したが)
親子の抵抗に怒り死罪申し渡す、恭順を続ける昌幸と必死の信之
の懇願に、九度山に流す、蟄居した昌幸は真田紐の内職を僅かな
家臣に勧める。司馬遼太郎氏「関ヶ原」「城塞」「豊臣家の人々」
「新史太閤記」にこの時代が活写される、滅びの歴史は哀しい。
次男信繁(後年の真田幸村)は関ヶ原で滅びた大谷吉継の娘を
妻にしていたが、九度山を抜け大阪城に入り活躍する、淀君派の
無定見に絶望したが夏の陣では家康軍を翻弄し壮絶な死を遂げる
昌幸は慶長16年(1611年)配所で65歳の反骨の生涯を遂げる、
世間を憚り、後年、国許に遺髪が戻り父母の墓所長谷寺に墓が
建立され今日も香華が絶えぬ、代々遺訓を守り善政を敷いた家系
は長男信之の子孫が守ったと言う。さて戦国軍閥の軍資金・銀は
、徳川が目を光らせ、太閤の遺産は鋳潰され、人の手程の大判金
指の長さの小判金、持ち運びに利した丁銀、豆板銀、一分、二分金
銀、天保通宝、宝永通宝等が誕生し絢爛たる貨幣文化が開花した。
今日はこの辺で、さようなら。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)









最近のコメント