「第22回、江戸学に嵌る、夢のような4ケ月間、今日は江戸の話」

 ◎「江戸ッ子は辛いよ、宵越しの銭持たぬ彼等の気風に只管、惚れ込むの巻」

金も無いのに、初鰹や、旬以外の野菜や果物に法外な金を使う、苦々しくお上は

この野放図な風潮に何度も、高札、町役人に喧しく口出しする(障子で保温したり

温室然としたところで野菜を育てたりする農家が出たりするのを苦々しく思った)

 町人でも華奢な連中は絹物を禁じられると、裏地や下着に贅を尽くす。注※1。

 一方に棟割長屋で日頃、膝を組むしかない狭い空間で過ごす町人達は反動で

遊山や放蕩に僅かな貯えを浪費した(当ブログ18回で父の祈念碑訪問記参照)

その際、指呼の江戸東京博物館を見学して、江戸の虜になり今日に至る。Gooの

ブログに夢の“江戸の旅の話”を書いている始末。検索→【rubotan8】でご覧乞う。

凝っては思案にあたわずだが時代考証にも凝り、反響も3桁を戴く。

 なぜ250年も民衆が反抗せず平和が続いたのか謎である。明治史観では江戸

期は圧政退嬰の時代とされた。封建時代はどうみられていたろうか。戦国時代に、

宣教師ロドリゲスは日本教会史にこう書く。“土地は全て耕作されることも無く、又

耕作されていた所は種を蒔いた儘で荒らされ、敵方や友人により強奪され絶えず

互いに殺しあい、極度の貧窮悲惨にある。商取引もなく法も統治も無い(中略)”

百年後にケンペルは“この国の民は習俗、道徳、技芸、立ち居振る舞いの点で、

世界のどの国にも立ち勝り、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、頑健強壮

な肉体と豪胆な気性を持ち、生活必需品は有り余るように豊富で平和で幸福そう

そうだ(中略)”ロンドンのテームズ河は下水で汚染、国会の議事も悪臭で中断し、

とあるが、落語の「芝浜」では隅田川で白魚を掬って、顧客に船頭が勧めるのだ。

 何割か割り引いてrも日本の環境良かったようだ。日光に駕籠で出掛けた外人

は人足が、握り飯と漬物、梅干しで平然と往複した姿に驚嘆した。自ら、駕籠で、

どれほど走れるかしらべたがすぐ息切れしたと。農民は年貢を収めると、名主と

菩提寺の僧に道中手形(パスポート)と関所手形(ビザ)を貰い各地を旅する。外人

は不思議に感じた、彼らの国は00公爵領を通過するたびに色々な税を納める、

欧では自分の住む領地から出るのは徴発されて戦争に狩り出される時である。

 日本では農・工・商は武士と違い戦争と無縁であった長屋の民は税金も無い。

 江戸はお上が、朱引き(御府内)墨引き(町奉行支配)その外円は郡代に任せ

た、一日で往復出来る距離自由に出掛けられる、寺社参りが好きな連中が多い。

今のJR中央線内部位であろう。外堀の内は武家地が我が物顔、広大なものだ。

 今日は、江戸マニアの小生の近況を、Gooブログ参照されたい。では又。

  注※1。現今の果実、野菜には旬が無いと言われる。昔もそのような、事態

   があったと知り可笑しくなった。幕府は、野菜、果実に旬の出荷許可基準を

   作った。紙面の関係で個々に触れぬが認可時期を示した。(旧暦である)

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「第21回、武士の日記と、家計簿。その暮らしぶりを探るの巻」

 暫く、御無沙汰した皆様お元気でお過ごしと拝します。確定申告、貨幣の商売

決算期、そして上京と目まぐるしく動き廻ったのでブログの方を気になるが割愛し

た、最近やっと、落ち着いて本を読む時間も出来たが百年に一度の不況に胸が

痛みます。私も終戦前に疎開やら父の空襲による爆死の苦渋の時期と飢餓の

洗礼を受け筆舌に表わせぬ幼年期を堪えた身からすると、不死鳥のように蘇生

した日本の粘り腰、絶望してない。昨今、見た何十年前の映画「風と共に去りぬ」

の主人公のように明日を信じ励めば、必ず旧倍の叡智で挽回出来る筈だ。

 閑話休題。最近“元禄御畳奉行の日記”と“武士の家計簿”を興味を持って読

んだ。Gooブログに書いた勝麟太郎の赤貧洗うが如き生活(小普請組の旗本)か

ら見ると、元禄の尾張藩の朝日文左衛門重章は、元禄期でしかも御三家で安泰

であった、彼は<奉行>と名は聞こえ良い。知行百石余だが、響き良い絢爛たる

時代の生まれだ。家祖は甲州の農夫、信玄の足軽で戦死、その子は槍で活躍し

主の朝日永寿から朝日姓を受けるが武田滅亡後家康は遺臣達を重寵。徳川の

老臣平岩親吉に仕え、陪臣(またもの)ながら、慶長、大阪の陣で加増を受けた。

重章は九日毎に登城、気楽な勤務の身分、彼は18歳から26年間も日記を書く。

綱吉の生類憐れみの令に遭うが殺生し安逸な生活。当時、元禄小判の価値では

大工が月に一両二分(六百文)日給は二百文。最低生活者は日に二十五文あれ

ばどうやら暮らしていけた。商人が台頭はじめつつあり“銀五百貫(五十万匁)は

五十匁で一両だから、従って一万両となるその金持ちを”分限者と呼び羨んだ。

 現在価値8600万円程だ。“此の倍の一千貫以上を持つ者”を長者と呼んだ。

 重章は友人と「禁制の鰡を二匹買い煮て食べる一匹四十文なり」元禄6年12月。

 江戸では雁や鶏を食えば極刑である。尾張藩も鷹匠で馘首になるもの続出。

  さて吉宗の時代、「享保の改革」で改鋳された元文小判の価値は米価で現在

価で五万円(江戸初期10万円、中期は五万円幕末五~四千円、インフレで下落

する一両の価値)塗炭の苦しみが武家・庶民を襲った。

 もう一冊の本は“武家の家計簿”これは加賀藩御算用者の資料である。この主

の猪山家も菊池右衛門と言う加賀藩の千石取りの旗本に仕えた陪臣であった。

 菊池家では給人であるから知行を分け与えられたが精々三十石か五十石だ。

しかし筆と算盤に精通し、加賀藩に五代目が直参になる。江戸時代は武家社会

は算術を軽蔑していたから珍重されはじめた。18世紀は砲兵、工兵が弾道計算

や測量の数学的素養が求められてきて貴族社会の騎士道は平民に替られ始め

た、ナポレオンが砲兵出で革命を起こし近代化を開いたのが一例だ。

 猪山家で禄高百石でも借金するようだ。債権者は町人、藩役所、武士(親類)

武士(家中)知行所。親戚、同僚でも年18%の利子を取られたそう。元禄時代は

両替屋が銀行の役目をした、預金の利子は月六厘、銀約三十貫(五百両)あると

利子が年に三十六両で四人家族で食っていけた。【武士は喰わねど高楊枝】

 天保13年~明治12年迄書かれた、大抵の武士は丼勘定が殆ど、猪山本は

希少価値がある由。武士の俸禄は大別し、①知行(所領を与えられる)②蔵米で

(米を支給される)③扶持(米の支給だが日給制)。武士の悪口“このサンピン”

と言うのは尤も薄給の中小姓が約三両一人扶持だったからだろう。十三石二人

扶持の下級武士の家に生まれた福沢諭吉の【旧藩情】を読むと“麦、粟を買い、

粥や団子にしてその日を過ごす”とある。慶安軍役表に依れば武士は平時でも、

所定の兵員を常時抱えている、三百石の武士は、兵員7人が必要だった。

 この武士の例では三百石取りの収入は(4公6民なので)実収は百二十石だ、

一石=一両として金銭で百二十両。支出が主人・家来の食費が四十五両、家来

の給金が三十八両、諸雑費が四十両、主人一家の衣料代が三十両で赤字が、

なんと三十三両となる。羽織、袴。妻や家人もそれぞれ体裁を考える、奉公人は

法被、半纏でも良いが、登城時は正式に、槍持、中間は家紋入りの格好をする。

 二百石の武士の正式な出陣の場合は馬の口取り、主は馬に乗り、侍、小荷駄

甲冑持ちの図を見たことがある、尤も、金が無いので幕政の中頃は槍持ちと草履

取りの二、三人程で誤魔化したらしい、武士とは体面を重んじ大変だったらしい。

 江戸時代の武士の俸給は現在の職務内容から給料が払われる仕組みから言う

と隠居を申し出る迄“昔、先祖がコレコレの勲功を建てた”で支払われて家老、藩重役

になると、家柄で無能でも家督を継ぎ、お目見えが済めば生涯平穏、安泰だった。

 江戸時代は国民総生産の25~50%が武士の取り分であったそうだが、市農工

商の身分社会で余裕のあったのは冨商、冨農で、江戸や東北でも観光旅行に行く

と、新潟・福島で豪農の館が残り“♪殿さまには及びもつかぬが、せめて○○様に

なりたい”と小作人の恨み節が聞かれる。昨年旅した会津の旧家は2県に跨った豪

農であり東北の小藩の財政の面倒をみたそう。ピンからキリ迄あるが今夜は、武士

の哀しい生活の一端を垣間見た次第、では、又、おめにかかります。

 お休みなさい。 

 

 

   

 

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「第20回薩摩の武士の一典型、西郷の死生感に惚れるの巻」

  ここ、2ケ月、ブログに幕末と、維新の研究に殆どの時間を費やした。76歳

の私の生きざまは、何と、能天気なんだと、自戒した。夢の中迄、西郷や大久保

が出てくるのには参った。その参考文献は畏敬する司馬遼太郎氏の巨星西郷を

描いたもので皆さんご存じの本。「とぶが如く」(原書のとぶの漢字がパソコンに無い

ので“とぶ”とした、ワープロは単漢字多く入っていて助かるがパソコンは語彙が少なく

 不勉強で漢字の出し方がイマイチである)さて維新の最後の薩・長・土・肥の貴顕

の勢力争いの場に私のブログが進みつつあるが薩摩の藩の若者群像が格調高く

描かれている。なんでも最近の卓見では万人を導く作家では江戸は頼山陽、明治

は徳富蘇峰、昭和は司馬氏だそうで私も納得最初は難解で再々読して、やっと

理解出来る本多く「空海の風景」大難物。薩摩の国は高山彦九郎に言わせると

日本の国家の中にもう一国の独立国があると嘆かせた位、相互監視の厳しい国

だそうだ。江戸から入った幕府隠密悉く殺され“薩摩飛脚”の言葉で畏怖された。

 薩摩全志士が清廉潔白であることが清々しい。最近の政治家達に爪の垢でも

飲ませたい。此処で「郷中教育」が知られている。西郷、大久保、松方正義、森有

礼、寺島宗則、大山巌が知られる。大久保は家族が多く食事時になると西郷宅で

ちゃっかり御馳走になったそう。慶長年間、島津義弘が子弟相互教育制度として

この遣り方考案した、年少を稚児(14歳位)を年長者のニセ(24歳頃迄)が教師

役で厳しく指導した。オセンシと言う言葉が司馬氏のこの本で出る、御先師?先輩

に対する敬語か。薩摩のニセは午前は儒学、四書五経を教え午後は鍛練をする。

 西郷は少年期。喧嘩の仲裁中に、相手の郷中の子に右腕内側の神経を斬られ

数日高熱で魘され蘇生するが剣の修行断念、中村半次郎が終世西郷を護った。

関西で深更になると自宅出て、先輩、後輩が、番小屋に泊まり込みデベートしたり

鍛練や夜警をする風習があった。司馬氏の本に“義ヲ(嘘、言訳、理屈)イウナ”

“ヨワモノ苛めスナ”(弱者を苛めるな)。剣道で“チェスト!”の気合も薩摩で有名。

 刀は抜くべからざるもの無益な殺生禁ずるが危急の際、示現流の必殺剣振るう

 この薩藩の志士が天下騒乱で(郷士、城下士達が)暴れ維新の変革を担った。

 戊辰の乱で薩藩は勇猛で他藩圧し、陸軍・警察を掌中にしたが汚吏乱臣少なく

私は感服。征韓論で薩藩が割れ、あの西南の役で西郷が非業の最期を遂げたが

悲しくも郷中の仲間の縁が最後迄軋轢の種になった事が惜しい。明治帝は西郷の

乱臣賊子の汚名に心痛められ明治22年、憲法発布の大赦で赦し正三位を与え

られた、「ウドサー」「セゴドン」の愛称で西郷今日この地で人々の胸に生きている。

 秀吉、西郷は“人たらし”の典型で、拠る人々を磁力で吸収した。金銭に恬淡で、

旧幕藩の屋敷を参議クラスは廉価で政府から与えられたが、豪勢に建て直した例

が圧倒的に多い、爵位を授かり綺羅を飾り、自らを“御前様”と呼ばせ書生群に

履物を揃えさせたり、土下座させて、悦に入る輩が多かった、尤も、暗殺が多く、

旧幕の不満分子が狙う例が夥しく当時は、用心棒を兼ね身辺警護に屈強な郷里

の後輩を集めたものだ。木戸がある日、散髪に仏人の店に入った。帰途人混み

を縫う際に大小差し後ろから駆け足で来る丁髷の壮士や、馬上の庶民(維新前

は武士以外御法度)の威勢に狼狽したり、刀剣禁止令の火急な必要性を痛感

したそうで、気もそぞろ、帰宅して妻に「書生を御持ちなさいまし」と言われた由。

桂小五郎で名を馳せ抜騒乱の巷を平気で生き抜いた豪傑も次第に気弱になった

ようである。西郷は前述の豪邸を直さぬから雨漏りし、客が来ると、庭で傘さして

応対したり一張羅の着物を洗うと褌姿で乾く迄縁側でごろ寝したらしい。求職者

が郷里から訪問すると、桐野が玄関脇で追い払うがなかには、運良く逢える者も

いた。一例で。ぼろぼろの風体で来た男が留学志望を言う。薩人は寡黙を尊ぶ、

ぼそっと、「鉄砲の研究をしたい」と言う。外国から優れた銃器が来る時世だ、

しかし、戊辰の乱でその腕は薩藩一で名を馳せた「村田」は西郷も無視出来ず、

自分の扶持を削り研究する姿に感銘渡欧させた。彼の地で競技会があり、的

に当てる弾の数で何時も一位を独占した。後年、村田銃を作り恩に報いる。

 もう一人鉄道を研究したいと郷里から若者が来た、「大久保に言え」無視され

たのでセイゴドンにと言う。おまえは「海軍に行け」英国にやる。後の東郷である。

西郷は、他藩に人を押し付けても役立つ者を育てた(他藩は一匹狼のような、

自分だけ維新の果実を食う連中が多い)閉口したらしく西郷を見て逃げた。

 征韓論に破れると西郷は憮然として帰国する、後を追う後輩の数は夥しく、

軍・警察の後輩が追う。毀誉褒貶があるが、不世出の英雄だったと言える。

 今日はこの辺で、又お会いします。

 

 

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「第19回、渡来銭の宝庫“日原鐘乳洞”の謎について考察」

 暫く御無沙汰しました。季節も、読書、物思い、良い時季になりましたね。

平成16年12月の「オークション・ネット」で“日原鐘乳洞出土鐚銭類”の貨幣

の競りがあった。日野は東京都下。水量豊かな観光地で、昭和30~40年

洞窟に穴銭が発見された。中国銭・寛永銭と多岐にわたる。注目は日本鋳の

鐚銭だった。未流通で埋蔵されたので銘文の解析や鐚銭製作の小様鉄銭を

確認する格好な研究対象。しかし鍾乳洞の公園整備で新出土銭は無くなる。

 湿気や埋蔵品の選別中に外気も入り状態も劣化が進んだ。このセリは関心

も高く、私共も顧客さんに落札品を納入した。9月、此処を訪れた。JR青梅線

の終点から「東日原」行きバスに乗る。うつらうつらしてると半時間で着く。

 休日なので、洞に近い所迄は行かず、「東日原」で降ろされる。30分歩く。

 私の近くのは大滝根鍾乳洞。渡仏の際はW・ウエルズの小説に出る様な、

大規模鍾乳洞に入った。曲がりくねった階段ゆっくり降り、地底湖をボートで

走る。モーター付きで走るのだから、かなりの距離だったなぁ。

 日本で舟で走るのは見た事無い。蛇行したり、ミミズの様に這うのは体験。

「昔、貨幣出土した場所見られますか?」と入口で聞くと、フアンが来るらしく、

「採掘した場所、わかりますよ」とことなげに言う。摂氏10度ひんやりする。

低い天井に額がぶつからぬ様に腰かがめ棚状の凹部に目を凝らすが仄かな

蛍光灯下では老眼で鮮明に周囲が見えぬ、闇に眼が慣れると階段が見えた。

 水琴窟がある、蓋の図は“北周布泉”だ。老いの身はよく冥界の夢を見るが

 「三途の河」「死出の山」「賽の河原」「地獄谷」此処の名付けも不気味だなぁ

一廻り約1時間「江戸東京博物館」比すると心身涼しくタイム・スリップを堪能した。

 昭和40年、大量の古銭の総量は56万枚、約1屯。

1、無紋鉄銭 一番多く50万枚。2、加冶木等日本銭15000枚。3、北宋銭は

 2万枚。4、寛永通宝35000枚。何れも銅銭は溶解、破棄されたもの多い。

 オークション・ネットでも上~佳~並品が殆どで「広穿(こうせん)元祐通宝」や

 「天下手祥府11枚組」(小様鉄銭1枚含む)等が良いと思った。

  皆さんも「日原鋳造銭」(鉄分が多い)「日原出土銭」(他で鋳造されたもの)

 渡来銭、寛永通宝、加冶木銭等の日本銭である。皆さんも機会あれば是非

 蒐集してみてください。今日は、この辺で。

 

  

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「第18回、酷暑の旅をご披露」

 貨幣の話題について、前回迄お話してきた。今回は数年ぶり酷暑の数日を足に

豆をつくりながら歩き回ってきた次第をご披露したいと思う。貨幣の話題が出ぬ

とご不満かもしれぬが、ご覧乞う。

Ⅰ、亡父名が記載の墨田区横網町公園の「東京空襲犠牲者追悼祈念碑」参拝。

Ⅱ、皇居、東御苑、三の丸尚蔵館、“1900年パリ万博日本出展品展”を拝見。

Ⅲ、両国、江戸東京博物館。常設展示と“中国・故宮、書の名品展”と“発掘された

  日本列島・2008”東京展の見学。

 Ⅲの故宮の書の展示は、書に興味ある方々の熱気が蒸れていた。私は門外漢

だったが王義之の「蘭亭序」が日本初公開でその他歴代皇帝の書が心に残った。

又、遺跡展は“太郎水野2遺跡(山形県金山町)と“大清水上遺跡(岩手県奥州市)

が旧石器時代、縄文時代の代表として気を吐いているのを拝見出来て感激した。

江戸東京博物館は行かれた方も多いと思う。兜、鎧、刀剣類は真正品だが、貨幣

は某銀行の展示の写しだが、チャチなので落胆、金製品は模造も、良いものある

筈だ。銅貨類は本物にしてもらいたかった、貨幣店で容易に入手可能だ。次回は

この展示に関連ないが中国銅銭が大量発見された「日原鐘乳洞の話をしたい。

きょうはこの辺で、お休みなさい。

  

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「第17回“荘園”の盛衰を探る」

 荘園とは公的支配を受けぬ又公的支配を極力制限した一定規模以上の私的所

 有経営の土地だ「荘園」はManor(領地)西欧・中欧では領主の邸宅をも指した、

 仏ではマンション、英ではアパートメント・ハウスが派生語として使われる、意味深

 な言葉、日本ではわが町でもこの名が猫の額見たいな貸家にも使われる、仏の、

 ガルデクノン氏や従姉妹の手紙で正確に住宅名称が表現されるが流石だと思う。

 脇道にそれた、洋の東西を問わず「荘園」は生まれたが日本は奈良時代はじめ、

 朝廷の威光も眼光も威厳あり支配が徹底してたが人口の増加と財政需要の逼迫

 で期限付きの開墾制度を図り<三世一身法>を制定したが期限がくると没収される

 ので下火になる、時の政府は743年、「墾田永年私財法」を発布した。

  この法は墾田永年私有を認める為のものだったので個人資本主義的なものだ。

 短期間でも、耕す程自分の物になるのはこの時代ぐらいだろう、お上に報告する

 実測にくる訳でなく国司も多忙でかなり杜撰なものだったろう、大らかだった。貧農

 には資本を持つ貴族・大寺社、地方豪族が農耕具、生活費を貸与し開墾を奨励し

 はじめると大規模土地所有が畿内で広がる。

  中央政府から地方に遣わされた国司は下級貴族が多く開発領主として土着。

 所領の争いに武力使い家僕を増やし武力で闘争し鎌倉幕府の下地が生まれる

 1180年初期の鎌倉幕府は御家人から地頭を任命、朝廷はこの様子に危機感を

 抱き潰そうとした1221年、承久の乱が起こすが破れて東国から西に上る御家人

 が全国的に武力を持ち逆効果を招き、朝廷の威厳・実力は低下した。

  室町時代、民衆が戦乱の中で村落単位の団結を計る、「七人の侍」映画の例

 だが農民の結束等織田、徳川、上杉、武田のような強固な武家に敵う筈は無く、

 荘園は荒廃し夫々の武将が盛衰を繰り返すうち私的農地は荒れ離散する農民

 増え一気に「荘園」は没落し消える運命を迎えることになる。

  中世の末期、信長が興隆する、中世的商習慣を破り占領地に1567年“楽市”を

 設ける、繁華な土地に税からのがれた商人が群れ農民も火を求める蛾のように

 この地に安堵開墾に励む。秀吉は事業後継者となったがその直轄領は二百万石

 に過ぎず海外貿易(堺)の税収がものを言う、彼は荘園を消す暴君であり検地に

 より全国の土地を精査し農民も縛り完全に中小地主の息の根を止めたのである

  豪族の地方割拠は無意味になつたのは「米」を商品に日本国を一市場にした事

 で秀吉の頭脳と部下の石田三成の計数能力の手腕によるものが多い。では、又。

 

  

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「第16回「荘園」時代に突入す」

 昨日(5月12日、TBS放送、夜の水戸黄門。)で武田の甲州金の話題がでた。

 街道からちょつと逸れた疎林の斜面に抉れた穴がありそこを入り、坑道で2人

 で松明で探り少し傾斜面を降りると木製の櫃があり難なく、開くと丁銀様の物が、

 無造作に迸った。TVの番組で、武田の埋蔵金や、江戸末期の佐渡金山奉行の

 徳川再興の埋蔵金の掘り続ける人々の話題が出る。もう数千万円遣ったと言う

 話だ(地中から出た謎めいた仏像や)絵図らしきものが祖先から受け継いだと、

 勿体つけて、ぎらぎらした執念の視線を見ると、カリブ海のスペイン船の嵐の後

 の沈没船捜索に通じるものがある。向こうは金属探知機や海底の砂を払う最新

 装置もあり古い文書の手掛かりで成功率も高い、映画でも見た。日本は古文書

 もなく、赤城山麓や、武田の終焉地や雑木林の凹地、旧坑道を当てずっぽうに

 探るので、未だに発見の報を聞かぬ、莫大な資金を商売に使えばその執念で、

 成功すると思うが「夢」と言う一字に賭けるのだろう。昨夜のTVのような場所に、

 当時の施政者が、埋めるはずが無いが、愛嬌として見てれば罪は無い。

 

  日本は「和銅元年」708年、最初の銅貨、銀貨(古和銅)が出来てから、52年

 間、朝廷は色々な策略用い貨幣経済の流通を計つたが、一種では困る、半世紀

 後「天平宝字4年」760年。万年通宝を鋳造、合計12種“皇朝十二銭”を出すが

 水増して<改鋳利益>を狙う新銭発行は、インフレを招き庶民の貨幣への信頼

 を損ね、朝廷の威信も、「荘園制度」の勃興で大いに変動し低下の道を辿るが、、

 以下、次号叉すぐ、書きます。ひとまず、お別れします。                 

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第15回「和同開ほう」時代を探る

 貨幣を26年も扱って商売してると「先生と」よばれ、辟易する事がある。勿論、

 大学を出てから、教師の資格もあり、多少、貨幣関係の著作もあり、人並みに

 勉強もしたが、先に生まれたという意味で「先生」と云われるなら良いが、得て

 してベンチャラめいてコインを廉く購入しようとの下心の向きが多い尊称なので

 当方は警戒するので、私共に来られる方は、ご懸念なく呼び捨てされたい。

  「和同開ほう」ワープロの字は“ほう”が漢字で出るが、パソコン文字は「ほう」

 も「ちん」も出ない捜す方法は有るのだろうが、此処では、平仮名で勘弁願う。

 『和同開ほう』の「本物欲しいが在りますか」?。とボーナス時期に問い合わせ

 が来る、怒らないで堪える、何故なら、ごく、正しい表現だからである。

  昔々、どれ程の発行数があつたか知れぬが顧客さんだったら、時間を頂戴

 し鑑定書付きを納める。何枚か今迄商ってきたがこれほど厳しい品も無かろう

 採算が取れぬ、仕入れ値が高い!。まして、『皇朝十二銭』全揃いのオーダー

 だったら、ご免蒙る。708年から250年の期間に12種が発行された。組合の

 「日本貨幣カタログ」に <和同>だけで12種解説されている、(最近、細かく

 分別された)昔は2種位だったが、研究されてきた。価格も開きがある。

  偽物の世界でこの種が一番多い、権威のある貨幣商から組合鑑定書付きで

 お求め請う、最近、これより古い貨幣が発見された。「富本銭」である、

  左右に7個の星あり、平成11年1月19日、奈良、明日香村、「飛鳥池遺跡」

 から出土。成分の測定で最古の銅貨と認定され重文指定された。

  中国、唐時代の『麿文類しゅう』に‘富民之本、在於食貨’(民を富ませる本は

 食と貨にあり)から類推すると富本の持つ意義が推量できる「和同開ほう」製作

 が708年(和同元年)だから、富本銭が古い、見本となったのは唐代の優秀銭

 「開元通宝」武徳4年(621年)で当店でも中学生に推奨する→硬質銅貨だ。

  富本銭の左右の縦のに7個の星は七曜の星は【陰陽五行思想】によるらしい。

 こうした貨幣を眺めると、想像がはるか天空に駈け「趣味の王は貨幣である」!

 我田引水ではないが、富本も和同も目玉が飛び出るほど高いし富本銭は特に、

 国宝級だ。しかし、渡来銭でも特に江戸期に、優秀なるものを明銭「永楽通宝」

 (1408年)を敬い、年貢や物価を永楽銭に換算した表示「永代」「永高」。銭の

 異称にも「永」を用い元禄11年、日本橋箱崎町と深川佐賀町間に架設した橋

 は<永代橋>と呼ばれ愛された皆さんに「渡来銭」のコレクションお薦めしたい。

  今日はこの辺で、おいとまします。

  

 

 

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「第14回、札、丁髷、文明開化」

 タイトルが、唐突だが、まず紙幣の話から。外国人と文通すると不審に思われる

 日本の札が昔の肖像画が多いことだ(伊と仏は芸術家、英は女帝、史上の英雄

 そしてギリシャは哲人、学者、神話の女性達と誠に華麗だ)明治30年、政府は、

 閣議で日本武尊、武内宿弥、聖徳太子、藤原鎌足、和気清麿、菅原道真等を

 決めた。戦後、二宮尊徳が加わる。外人に「丁髷とは何なのか」?と聞かれた。

  応仁の乱後、武士が冑を被る時、頭ののぼせを防ぐ為に剃ったから“逆気”

 さかいきが転じて“月代”となった言う説がある。額髪を広く剃り上げ髻(もとどり)

 を前面に向けて曲げたものを丁髷という。青々と剃りあげた部分が月代で前頭

 部がまばらに延びるのは無精と忌み嫌われる時代だった。老いると髪も薄くなり

 老人は結い上げるのは大変だったろう。幕末に武士がかち合うと、頭で藩別が

 可能だった、薩摩はこめかみ辺りから広く剃り上げ、土佐は指二本の月代だ。

 薩・長・土・肥の開国派の中で長州が正統派だつた。司馬遼太郎「竜馬がゆく」

 の竜馬は、浪人なので総髪だ、ながい髪を後で紐で縛る。日本最初の写真師

 上野彦馬、彼は蘭国の化学者から、薬品の調合を学び、多くの写真を撮つた、

 これにより私共は維新の偉人の面影を偲べる。西郷は1枚も撮らない。暗殺を

 避ける為というより嫌いだったのだろう、島流しで流刑先で風土病に罹り、その

 為身動きが、肥満も手伝い悪く、華美な場所は嫌い、狩や釣りと戸外を好んだ。

 竜馬はかなり写真があり桂浜の銅像の基の写真が(懐手で肩聳やかす)が有名

 である。湿版写真は彦馬の働きで次第に長崎から江戸に広まった。

 脱線したが、紙幣に戻る。ジエノバ生まれのE・キョソーネは1875年(明治8年)

 来日、紙幣の鋼銅版手法、デザイン、原版造りに腕を振るう、神功皇后拾円札

 大黒百円札、その他。肖像画で、明治天皇。西郷隆盛を描き、高村光雲の至芸 

 が、上野公園の隆盛像に結実した。

  さて、丁髷も悲運に遭う、明治4年8月9日、太政官布。『散髪制服略服脱刀共

 可為勝手事、但、礼服ノ節ハ帯刀可到事』。願人坊主、牢屋敷の雑役夫以外は、

 髷が自慢の江戸っ子丁髷を切る事になったから、記念の写真撮る者、離婚騒ぎ、

 一揆迄も起こる、明治天皇は明治6年、断髪なされ、皇后様も御歯黒、眉墨を

 率先廃止の範をしめせれ、官員、警官、兵士が次々に洋服姿に変じた。

  政府は「髪税」「髷税」を徴収すると脅し明治22年、断髪が加速したと言う。

 ♪ざんぎり頭を叩いてみたら、文明開化の音がする♪ 来日する外人は、カメラ

 で、横浜、東京の風景を撮り盛んに海外に日本の姿をPRした。今回は明治維新

 の姿を当時のお雇い外国人の働きと人々の驚きを描いてみました。では叉。

 

  

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「第13回東は東、西は?の巻」

◎「大和撫子も強くなったのかしら?我が青春の賦、その5」

大使館の方が、知恵を貸してくださった「父上が戦死なさって

居られるなら父母のどちらかの実家に寄寓されたか、又は、

別居されても両家は文通されてる可能性があります、過去の

アドレスをどうぞ」私は疎遠前の住所伝えた、程なく、電話を

再度頂戴した「マリア嬢の同じ苗字の方が同町の電話簿に

掲載あり。縁戚かも知れぬ、問い合わせ乞う」と。度重なる、

大使館に心から感謝捧げた。私は日本の趣味週間の美麗な

記念切手をごっそり、彼女と私の写真を入れ縁戚ならばどうぞ

同封の手紙を回送して欲しいと英文と伊文を書いて入れた。

大使館から、ウンブリア州の地図と観光資料頂戴した。

数週間後、マリア嬢より見慣れた字の長文の便りが着いた。

大学卒業し教師になり、結婚し2人の男子に恵まれた事、前の

家の近くのマンションに住む事、母上も同居してる事が判明。

私は公務員を経て貨幣商になつた、仏、英、ギリシャ、スイス

渡航、次男は伊に数回行つたが私はまだ行かぬ事等書いた。

それ以来、今年まで過去以上の文通が交わされコケシが伊に

渡り、向こうから美術品、その他のギフトが行き交つている。

さても、私の珍しい姓名から福島県の電話番号簿で永い間

追尾し、折宅に電話下さった邦人はペルジア大学に留学されて、

先輩のマリア女史を屡々訪問し仲介の役を買った才媛だ。

(勿来→いわき市に合併で変り、数度の転居の私の℡を追い

埼玉の実家の応援で判明。伊国から国際電話くれた訳だった)

マリア女史は永年の文通で民族的偏見が無く積極的に邦人を、

招き愛護してきた、嬉しい話だ。縁はまだある、長男と交際し、

華燭の宴を教会と彼女の実家で羽織袴で式を挙げた(時間的

に、京都、奈良に行き帰途、拙宅に寄る予定が勤務の都合で)

来福は不可能だった。母似の好青年で和風の式は綺麗だつた。

最初はベローナに住んだが、今スペインに住む。大学が結ぶ

華麗な夢、このブログで書いた嫁取りで世界一幸せ者だろう。

 

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